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だざいふ史跡探訪

みずきあと

水城跡

福岡県太宰府市水城、国分

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唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmに渡り築かれた防衛施設跡

664年、唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmにわたり、築かれた大宰府の防衛施設。
博多側から南下してくると、太宰府市に入ってすぐに道路や線路を横切る木立におおわれた丘がある。これが664年、唐と新羅の攻撃に備えて築かれた大宰府の防衛施設「水城」である。その規模は全長1.2kmにわたり、基底部で幅80m、高さ13mを越える人工の土塁(堤防)を築き、その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、水を貯えたという。近隣の春日市や大野城市にも、これに連鎖する小規模な水城が残存している。

■水城を築いた理由
大宰府のある北部九州は日本中で一番中国や朝鮮に近く、原始時代から盛んな交流があり、進んだ文化はまずこの地方にはいってきた。こういう大切なところなので、大和朝廷は早くからこの地方を治め、外国との交際をした。
しかし663年、白村江の戦いで唐や新羅の連合軍に負けたことをきっかけに、敵の侵攻に備えるため、水城や大野城、基肄城を築いた。
敵に攻められやすい博多湾の沿岸にあった那津官家も、現在の太宰府市の地に移され、「大宰府」が誕生したと考えられている。このように「水城」は大宰府を守るのに最も重要な所であった。

■水城の構造
このあたり東西に山が迫って平地が最も狭くなっている。この東西の山を結んで長さ1.2kmの堤防を造った。その外側(博多側)に濠があって水を溜めて敵の侵入を防ぐというもので、水の城と書いて「水城」という。
当時は通用門が東門と西門の2ヶ所しかない大変厳重な施設であったが、現在は鉄道や高速道路などによって分断されている。

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西門跡の吉松川に西門に使用された礎石がある。この西門の遺跡調査で西門が3回ほど改築されたことが確認されている。当初は664年に国防を目的とした堀立柱の礎石(上図)であった。
2回目は中国・朝鮮の使節団が鴻臚館(筑紫館)から官道でこの西門を経て、朱雀大路-大宰府政庁に至るものであった。その官道は複数の遺跡調査からほぼ直線であったことが判っている。その西門は、国力を誇示するための楼門であったと推察されている。往時の使節団はこの西門を通ると、遥か東の大野城山裾に国分寺七重の塔や政庁の甍を見ることができ、日本の礼を感じたことであろう。また、大陸の文化・宝物(国宝)などの大部分がここを通り、日本に導入された。
その後、3回目は大陸との政情不安で国防的な門に改築され、以降は、大宰府の役割減に伴い、廃れたと考えられる。


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所在地 福岡県太宰府市水城、国分
アクセス 西鉄「都府楼前」駅下車 徒歩約20分
ホームページ なし
電話番号 -
水城跡

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